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昨日の弟の1周忌を見て、人寄せについて考えさせられました。
私は離婚する前は、事大主義の夫や姑のいる家で、法事という人寄せでは大変な思いをしたものでした。
参列者の車手配、食事の場や料理、手土産の決定だけでなく、お盛り物や法事を待つ間の菓子の用意、席の配置から手土産手渡しのタイミングなど、50人近い参加者を捌かなければならなかったのです。
そのため息子の葬儀から3回忌までの1連の法事の時なども、悲しんでいる暇もないほど手配に忙殺されたものでした。
特に2代目のお祖母さんの時は大変で、その頃の奉公人の人や、主人の知人、親戚など50人近い人達を日本橋の「ざくろ」でもてなし、宴の果てた後はどっと疲れが出たのを覚えています。
万事に気を配り落ち漏れなくことを運んでも、口煩い年寄りが多く、必ず何かと意見を言ってきたものでした。
何事によらず、実際に段取りをし物事を行う事に比べたら、批評し批判する事は大変に簡単な事であると思います。
仏事や典礼の運び方などというものは、初めの仏陀やキリスト、ムハンマドなどにとっては、それほど大切でなかったのでは…と思っています。
無限大の空の高さに比べたら、富士山はおろかエベレストでさえも平地に見えるように、我々如きの知恵や知識などは、原初の神や仏に比べたら何ほどのものでも無いと思っているんですよ。
問題は、そこに心があるか無いかに尽きるのでは無いでしょうか?
批判を恐れずに言うならば、仏陀の10大弟子やキリスト教の諸聖人でさえも、その叡智ゆえに「私達は凡俗と言われる人々と何ら変わりが無い」と言われるのでは無いかなとさえ思っています。
そんな私ですから、この頃は何があっても気にせずまた気にもならずに、それゆえ気楽に生きていけるのだと思っています😊