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「ちょっと、お茶出来る?」
頂き物のお礼に、昨日作ったラタトゥイユのお裾分けを持って行くと、仲の良い友人が声をかけて招き入れました。
家に上がってお茶を飲みながら、彼女より3歳ほど年上で、同じ階の高齢女性が亡くなったという話をすると、「実はね、貴女に教えて貰って始めていたネット証券の口座だけど、解約しちゃおうと思ってね…」と言うのです。
「勿体無いじゃないの、ずっと上がっているのに。それに、NISA口座は貴方が亡くなった後は、名義変更してお嬢さんが受け継げるのよ!」と私は言いました。
「複利の効果は、長く持ち続ければ持ち続けるほど大きくなるのだから、解約するなんて勿体無いのよ!」と続けると、「良いのよっ、余計なお世話だって感じで、少しでもお金の話をすると、恩着せがましいって顔するんですもの」と彼女…。
昔から心配し続けて育てたのだけれど、余り性格的には合わなかったのかも、と彼女…。
彼女ばかりでなく、私にも思い当たることはあります。ロンドンで亡くなった息子は、小さい時から突拍子もない動きをする子で、私はその度にイライラさせられたものでした。反対に弟は落ち着いた所があり、私にとってはご贔屓の息子だったのです。
上の息子には、このままではいけないと厳しく当たり、躾けたので、亡くなった時には「こんなに早く亡くなると分かっていたなら、あんなに厳しくしなければ良かった…」とひどく可哀想な気持ちになったものでした。
しかし、それにも関わらず上の子は、ロンドンから「お母んのメニューを教えて」と言ってきましたし、亡くなった後にも、彼の残した友人達は、25年以上経った今でも折に触れ私に声を掛けてくれています。
反対に、あれ程気が合うと思い、可愛がっていたと思い込んでいた下の息子は、殆ど連絡も無く、孫とも年に1度会うか合わないかと言う状況なのです…。
これは、下の息子に対する不満を述べているのではありません。
つくづく、親子の関係性の持ち方の不思議を感じているからなのです。
上の息子は、拒否され厳しくされていたからこそ、母親に対する思いが強かったのかも知れませんし、下の息子は、潤沢に愛情を与えられていたために、愛に対しては当たり前としか感じられなかったのかもしれません…。
同じことは、友人の彼女にも言えることなのかもしれませんね。
愛情もお金と同様に、有り余るほど与えればよいというものではないのかもしれないと思った次第でした。
まぁ、生物の自然な特性として、種の保存のためには、上の世代である親への気遣いではなくて、下の世代である我が子への配慮こそが優先されるのだと思うようにしています😊