にほんブログ村読む時はこのブログ村をポチってね!
先日、源信の「往生要集」について書きましたよね。その時に触れた二十五三昧衆…について、もう少し知りたいとは思いませんでしたか?
私もそうです。聞き取っていたのなら、どんな事柄だったのかな…?ってね。
でも、どこにそれがあるのか調べても分からず、いったい全体どこに書かれているのかもわからなかったのです。
ところが、今回再度「往生要集」を読んでみようとamazonを開いてみた所、梯信暁著の「お迎えの信仰 往生伝を読む」という著作に詳しく取り上げられている事が判り、早速取り寄せて読みました。
本書には、慶滋保胤によって書かれた「日本極楽往生記」を始めとして、「続本朝往生伝」「拾遺往生伝・後拾遺往生伝」といった、往生を目指す人達の臨終に現れた(とされる)奇瑞(不思議な事)が、取り上げられた人の説明と共に記されているのです。
この中には、聖徳太子や行基といった平安以前の人々も取り上げられているので、伝奇的な要素が強いと思われますが、読みやすい現代文で書かれていることから、説話文学として読むこともできますので、興味のある方は取り寄せて読んでみても面白いと思います。
この付録の項目として、楞厳院(りょうごんいん)二十五三昧過去帳という、二十五三昧衆の試みに賛同して加わった五十一人の過去帳が載っていたのです。
著者の梯氏も述べているように、過去帳という性格上、その他の往生伝とは異なり、臨終前後の聴き取りや夢見といった経験を書いていることから信憑性も高く、その頃の人々の往生に対する姿勢を正しく伝えているものだと思いました。
楽曲が聞こえる、香の匂いを感じる、そして誓い合ったように、夢に現れて往生の成否を告げる…。
その中には、往生出来なかった者や、死の間際に地獄の火焔に慄き、参集者の念仏で救われた者などもいました。
このような臨終作法が広まるにつれて、作法にのっとって臨終を迎えようとする風潮が一般庶民にまで広がると共に、この作法を全う出来なければ地獄に落ちるのではないかという恐怖が、平安以降の一般庶民に広がって行ったという事でした。
著者は「おわりに」の項で、日々の信仰よりも、死の間際の作法にのみ心を奪われていた当時の人々への救いとして、親鸞が阿弥陀如来の来迎が無くとも、人は信心を得た時すでに阿弥陀様の救いによって成仏を約束されていると説き、浄土真宗の門徒にはお迎えを願う必要がなくなったと述べています。
しかしながら著者は、私達が現代のように「死」と「お迎え」を同意義にとらえるような安易な考えには疑問を投げ、「お迎え」を後生の一大事と捉えていた平安の人々の心構えに触れることによって、自分達の「いのち」を直視するきっかけを得てほしいと結んでいました。