一昨日は昼過ぎから晴れたので、沢山の人が満開の桜を見に行ったのではないでしょうか…。
塾の横にある桜坂も、ゴミゴミとした街中の桜並木に、観光客が集まって道路の真ん中で写真を撮りあっていました。
なぜ人は、こんなにも桜に心惹かれるのでしょうか?
私は、子供の頃にも満開の桜を見ていたはずなのに、大人になるまで桜の美しさに気付くことはありませんでした。
初めて桜の美しさに気づいたのは、結婚して暫く小金井のマンションに住んでいた時のころでした…。
実家からの帰り道、車に乗って通り過ぎた、夜の多摩霊園の桜並木を見た時のことだったのです。
車のライトに浮かび上がった、路を覆う満開の桜の天井…。
雲のように霞のように、仄白く浮かび上がっては過ぎ去っていく、妖しいほどの美しさに息を呑むほど打たれたのです!
桜の樹の下には屍体が埋まっている…その時、反射的にそんな言葉が浮かびました。
このブログを書くために調べてみたら、詩人の梶井基次郎の詩だと知りました。檸檬の爆弾を仕掛けた、梶井基次郎ならではの感性だと思いますが、凡人の私にすら、あの妖しい美しさはきっと根元に屍体があるに違いないと思わせるものだったのです。
本当に、怖いほど妖しい美しさでした…。
最近は、ピンクや明るすぎるライティングを施す場所も見受けられますが、桜の妖しいまでの美しさを満喫するためには、過剰なライティングは逆効果ではないかと思います。
そうそう、嫁ぎ先の近所の墓地には、後に桜が植っていて、春先に満開の桜が墓石の上に広がるお墓がありましたっけ…。
これにもまた、西行の「願わくば花の下にて春死なむ…」という和歌を、毎年思い出されたものでした。
梶井基次郎の詩といい、西行の和歌といい、桜の花の妖しい美しさと散り際の艶やかさは、子供の感性には馴染まないものなのだと気付かされたのです。
これは、大人にこそ分かる美しさなんじゃないかとね…。
竹内まりやの「人生の扉」、2番の歌詞に涙ぐむ友人の気持ちも、しみじみ分かる今日この頃です…。