祈る…こと

生活の知恵
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今日は勤労感謝の日ですね。昔は新嘗祭といって、天照大神にその年に収穫された新米を供え、神への感謝を捧げるという日であったのです。

毎年、魚沼の農家の方からの新米をお分け下さる方がいらっしゃるのですが、私は玄米を食べているのでとご遠慮したところ、縁起ものですからと今年も2㎏送ってくださいました。

今朝はこのお米を神様にお供えして、普段からのご守護に感謝をしました。

以前にも記事に上げたことがありますが、私は、全くもって日本のクリスチャンというものでありますから、神様も仏さまもイエス様も共に信じて自分の中に頂いています。ですから毎朝、神棚に水とお米と海塩をお上げして拝んでから、別の場所にあるイエス様に祈り、その後写真の両親と息子とその他の御霊にお茶とお線香をあげて、朝ご飯という毎日の習慣になっています。

忙しさにかまけて、この手順を省いてしまう事も何度となくありますし、その時は「ごめんなさい」とお詫びすることにして許して頂いています。

でもね、そんな日が続くと、何だか生活が乱れてくることに気付いてきたんですよ。

そもそも、神様のお札を高い場所にお祀りして祈り始めたのは、仮越しのマンションに住み始めた時からで、御神符を大切にすることだけでなく、現状を良くしたいと思う欲があったからに他なりませんでした。

それからは、新しい生活を始めるに当たって、「より良い生活を」という思いを持って祈ってきたことは否めません。けれども最近少しづつ理解出来てきたのは、必ずしも目に見えるご利益ばかりでなく、きちんとお祈り出来た時は「よし、今日も1日頑張るぞ」というエネルギーが、体の奥底から湧き上がってくるような気がしてくるという事なんです。

ですから、忙しさを言い訳にして祈りを省略していると生活全般が荒れてくるのは、流れ込んでくるエネルギーが枯渇するからではないかなと思っています。これこそが、ご利益の本質なんじゃないでしょうか?

こんな朝、「祈っています」と返信を送りたくなるようなメールが届きました。

この祈りは漠然としたものではなく、明確な目的を持った祈りです。

強い気持ちと明確な目的を持った祈りは、確実に人智を超えた結果をもたらしてくれることと信じています。

「人は無力だから祈るのではなく、祈りにおもいもよらない力があるから祈るのだと思う」と、筑波大学名誉教授の村上和雄先生も述べておいでです。

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