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銀座の美術雑誌出版社に勤めた話から、少し間が空いてしまいましたね。
5年ほど勤めた頃、姑の認知症が進んでしまったので、出版社を辞めて介護生活に入りました。その頃の経験は、現在お年寄りを抱えている人達と、ほぼ同じ悩みや疲れを抱えていたと思います。
この先の人生についても、介護生活の先行きについても、見通すことができない五里霧中の日々であったと思います。
このままの生活が続くとは思えず、さりとて打開する道も思いつくわけでなし…。そこで、姑が介護施設に入居したのをきっかけに、新しい仕事を探しました。
今は、PCやiPhoneのサイトに職種や勤務地・給与などの希望を入力すれば、それに沿った情報が提示されますが、その頃はまだそのようなサイトも十分ではなかったので、新聞の求人欄を見て探したのです。余談ですが、新聞の種類によって求人広告の職種も違いがありました。マーケティング上当たり前のことだと気づきましたが、読者の層に対応する求人が載っていたのです。
朝日新聞の求人で、歴史ある財団事務局の求人に応募して採用されました。これもまた前回の応募経験から、財団や法人が年齢制限をあまり設けていないということを体感したからです。
財団の事務局は、由緒と歴史のある病院の1室にありました。そこでの作業は、事務局長の手伝いや季刊発行の雑誌の発送業務、理事会の食事やお茶の給仕、年1回開催される大会の運営業務などでした。
事務局での仕事はとてもゆったりとして働きやすく、理事長先生は大変リベラルな方で、私たち事務局員に対しても尊大な態度は一切おとりになりませんでした。お茶の時間には顔をお出しになって、診察の合間のおしゃべりを楽しまれていました。
本当に働きやすい職場でしたが、先々のことを考えて自分に何かの力を付けたいと思っていた私は、3年を前にして、発達障害児のプライベートスクールに転職することにしたのです。しかしこの職場は、感覚的にも物理的にもあまりにハードだったので、私にしては珍しく、3か月の試用期間で退職を決めました。
しかし、ここで知ったピアジェの発達心理学や幼児期の言葉の発達の段階については、後に役立つ大切な知識として学習しました。
この職場を辞めた私に、1か月もしないうちに理事長先生からのご連絡があり、先生が関係する学会の事務局長への就職が決まりました。この学会事務局での話は、長くなりますので次に書くことにします。
財団の理事長先生と事務局員時代の友人とは、普段は殆ど連絡を取り合ってはいませんが、先日このブログのことをお知らせした際、お昼を一緒にという事で、卒業された駒場キャンパス内のレストランで食事をしました。友人の彼女とは時々電話で話すなどしており、我が家にも遊びに来てくれていたので、あの頃のお茶の時間のおしゃべりに一足飛びに戻ってしまいました。